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北アルプス発 ふなくぼだより
 
ふなくぼだより2003春号

今回の『ふなくぼだより』は2003春号でお知らせした、船窪のお母さんのネパールヒマラヤ、エベレスト街道の紀行文をご紹介します。(この記事は、地元紙・大糸タイムスに『お母さんの山旅〜ヒマラヤ紀行』として掲載されたものです。)

今年の目標

気が付けば、60歳をすでにいくつか超えてしまっていた。昨年春のアンナプルナ山行は、私はけがをしてしまい、参加することができなかった。夫が帰ってくるまで、天井を見上げて寝ていることが、いかに無意味な毎日であったか、と自分の愚かさをかみしめた。
以前からアイランドピークへ登ろう、という計画があり、昨年宮沢美沙子さんが登った時の状況を伺い、実現することになった。22日間の山行記録と共に、エベレスト街道で感じたことをつづってみた。

10月22日(月)栂池の自宅発、23日関空着AM8時30分。
この秋、息子がお嫁さんをもらい、今日新婚旅行から帰る日、私どもはネパールへ出発する。小屋仕舞いを10月15日に済ませ下山して7日目である。忙しい想いで準備した毎日だった。
夜9時17分白馬発、途中常盤駅にて松原氏と乗り合わせる。松本で堀内氏と合流、”ちくま”にて関空へ。11時間余りの夜行は眠れず足も疲れた。関空にて横山、戸塚さんと合流する。ロイヤルネパール機12時50分発カトマンズ行、関空の空はよく晴れ、月が美しかった。海の中の空港はおだやかな秋の日和の中で、旅客も少なく、のんびりと私ども一行6名を迎えてくれた。
巨大な空港が心なしさびしかったのは、客数が極端に少なかったゆえであろうか。ロイヤルネパール機は順調に飛び立ち、私どもは雲上の人となる。

カトマンズ空港にて
一万メートルの上空はあくまでも青く、足元に真綿雲が敷きつめられて、機は中国大陸を目指して飛んでいる。正午、チキンライスとそば、パンの昼食である。
途中北京で給油のためお休み、エコノミー症候群にならないようにお土産コーナーをぶらつく。
カトマンズ空港着20時、ロビーにはパサンヌルブシェルパが来ており、マリーゴールドのレイをかけ迎えてくれた。
シェルパホテルにはペンパラマも迎えに来てくれ再会を喜び握手を交わす。2人がグルカレストランへ夕食を招待してくれ、もてなしを受ける。

10月24日(水)晴れ
AM5時シェルパホテル発、AM7時カトマンズ空港発、ルクラ着7時40分。ルクラ飛行場は舗装され、4年前のゴーキョピークの時とは違い、きれいになっていた。欧米人が多く、東洋人も行き交ってまさに国際空港の様相を呈している。荷物を運ぶ人々、ポーターたちのも整然として4年前よりずっと洗練されている。私どもの乗ってきた飛行機は、次の人々を乗せてカトマンズへと飛び立っていった。休む間もなく歩き出し、朝食はこぎれいなロッヂでとり、ミルクティーを薄焼き卵、ホットケーキの簡単なブレックファーストである。
食べ始めたころオーストリア隊が16名ほど入ってきて、いすが足りなく店内はにぎわいを増し、隣同士少しずつ打ち解けて、話が弾み楽しいひと時となる。8時半ごろ歩き始め、大木の菩提樹のあるところに着いたのは9時、大木の根元にはチョルテンがたなびき、懐かしい地にいよいよ足を踏み入れたと実感する。昼食は道端のロッヂでとる。パラパラのご飯と野菜のボイル、澄し汁でまあ何とか食べられる。
大ア二石(石に直接経文を刻み5メートル四方ほど美しく色づけて積んである)をいくつか超え、パクデンのリバーサイドロッジ着(12時59分)今日の宿泊地である2652メートル。
4年前にはこのロッジの裏側でテント泊をしたことを思い出す。今年はテント泊だとマオイストなどによる窃盗が多いとか、それを警戒してロッジ泊となる。
4年前テントサイトの上方100メートルほどのところに、大きな大きな岩盤がありその下に蜂の巣があったこと、今回はないなあと皆で探しながら楽しく話が弾む。ロッジの部屋は戸塚さんと一緒、こぎれいな部屋で心地よい。
このロッジで思いがけず栂池の江蔵氏一行と出会う。彼はサーダーパサンヌルブが船窪小屋に来ていたとき、私どもが引き合わせ、それ以来親しくしていたという。今回はカラパタールまでいくという。

10月25日(木)晴れ
早朝5時前、窓の外に月光を浴び、美しく輝いている峯を見る。モーニングティーに目覚め、6時すぎシュラフをまとめ、荷物をパッキングする。顔を洗い、朝食に備える。パクディンのリバーサイドロッヂ発7時30分、あわただしい時間が過ぎる。今日は新調した高所靴を履いて順応することにする。少し厚めのくつ下をはき、一時間ほど歩いてみる。何とか足に合いそうだ。快晴のもと汗をかきながら快調な足調子で歩く。ブルー色のバックスキンを気に入って購入した登山靴であるが、火山灰の細かい砂ほこりにまみれ、見る間にドロンコ靴のようになってしまう。チェックポイントモンズー(2665メートル)をすぎ、大きなつり橋(ニュージーランドの登山家ヒラリーの基金により造られた立派な橋でエベレスト街道にはいくつかある。)を渡り、少し歩いて木のつり橋を渡る。道端のテラスでお茶と軽食のサービスを受け一服する。10時30分。
炎天下 荷物を運ぶ牛の背に タムセルク峯真白くそびえて
ドードコシの 大激流の水泡に トレッカー等は喜々として
石がゴロゴロしている1.5メートルほどの道を行く。きつい登りだ。太陽はジリジリと照りつけ、汗は全身をびしょびしょにする。12時50分樹間にエベレストを望む峠にようやく着。皆歓声を上げる。パサンがどこからか小粒だが美味しいオレンジを調達して来る。昼食は簡単に済ませる。
峠より 望みし峯は憧れのエベレストなり遥(はる)かに望む
4年前より樹木が成長したためか、眺望の範囲が少ないように思えた。ゆっくり休み1時半峠発。懐かしいナムチェバザールはもうすぐだ。4年前、夢枕獏著「神々の山嶺」上下を読み、山行に参加した時の感動を思い出す。夢枕氏の本の中に登場する主人公、深町や羽生が歩いた道をあえぎつつ登る。シェルパの故郷ナムチェバザールは今日も私を笑顔で迎えてくれるだろうか.「オーイ着いたゾーッ」という先頭隊長の声、皆足早に声の方へ急ぐ。白とブルーのふちどりの窓枠にグリーンのの屋根の家々が、整然と並んでいる美しい村、ナムチェバザールへ私は再び訪れることができたのだ。山腹をグルッと回って、道は下り気味にナムチェバザールへと続いている。3時40分ブッタロッヂ着3440メートル。パサン家の人々と懐かしき再会のひと時を過ごし、ビールで乾杯する。ブッタロッヂは以前よりきれいになり、ひと際にぎわっていた。きょう一日は8時間余の行程であり1000メートル以上の高度を登ったので皆疲れ気味である。夫・宗洋は夏から悩んでいた膝痛で、少し遅れ気味だが何とか一緒に到着した。最年長の堀内さんも相変わらず足が痛いのと高度に悩まされながら、到着した。戸塚さんは、とにかく初めての海外旅行が今回であり、あこがれのヒマラヤを目前にして少し興奮気味である。横山さんは元パイロットであり、ヒマラヤは初めてではあるが、語学は確かであり頼れる存在である。私は体調よく松原隊長にしっかりついて歩けている。100日間の小屋番生活の成果かもしれない....!

10月26日(金)晴れ ナムチェにて休養日

朝、目覚めると快晴。ロッヂの窓からは朝陽に輝く峯が美しい。7時朝食後はバザールを見に皆で出掛ける。チベット市場の他日常バザールを見に上の方へ行く。この日常バザールには米や野菜、肉、卵、粉や豆などあらゆる日常食品、雑貨類まで1キロにも及ぶ道端に店を連ね(露天)て並んでいる。お客様は近隣10キロ以上の道を歩いて買いに来るのである。18キロ入りの灯油を背にかついで急な坂道を登って帰る少年や、着る物や食料を買い求める人々で、露天の周りはごった返している。私たちも何かいい物が欲しいと民衆と一緒に、押し合いながら楽しむ。私は150ルピーのフリースのパンツを買い、明日からの着用を楽しみながらロッヂへ帰る。8時30分高度順応のため、クムジュンのエベレストビューホテルまで行くことにする。ナムチェ集落からの急な斜面を登る手前に、村の守護神ゴンバがある。ゴンバの中庭は祭りの時の儀式や余興ができるよう広場となっている。参拝してから登りはじめる。途中、ヤクや登下山する人々、バザールで荷物をいっぱい買い求めた人々と会う。エベレストビューホテルの創設者宮原氏が情熱を傾けた飛行場、1時間の急登はだいぶこたえる。夫は、新しい高所靴に履き替えての登りできつそうだ。10時30分エベレストビューホテル着。快晴の空はあくまでも青く、きれいに整えられた新しいチョルテンの後に、エベレスト連山が姿を見せ始め、皆待ってましたとばかりにシャッターを切る。ビューホテルテラスにてコーヒーとサンドイッチをいただく。世界一美しい眺望に感激しつつ、ビューホテルを後にする。ブッタロッヂ着1時30分、空腹でたまらない中、コックさんの心のこもった昼食に、皆感激しながらむさぼりついた。
 
ナムチェバザールからカラパタールへ
10月27日(日)晴れ

ブッタロッヂ発7時50分。それぞれのロッヂからはツアーを終えて帰る人、トレッキングに出発する人と石畳の道はにぎわっている。20分ほど歩いて上衣のフリースを脱ぎ、ナムチェの集落が終わった辺りから水平道を行く。アマダラム、ローツエ、タウチェと懐かしい峰々が美しく輝いている。サナサ10時着、富山市のパーティーと会う。チクンまで行った帰路とのこと。お互いに健闘を祈って握手を交わし別れる。プンキタンガにて昼食11時30分、さすがエベレストのメイン通りだけに、国際色豊かで、いろんな国の人々がゆったりと行き交っている。今日のお昼は何か楽しみだ。ここプンキタンガのテントサイトは、きれいな小川のせせらぎの中に、大きくて美しいマニ車がいくつも勢いよく回っている。昼食はパンとコロッケ、温野菜サラダ等いっぱい出てくる。ゆっくり楽しい昼食のひとときを過ごす。1時出発、以前ゴーキョピークへ行ったときのピークを左に見ながら、我々はドートコシ河へ向かっての巻き道をやや下りながら行く。少し行くとほこりっぽい道はだらだらと上りになり、炎天下にさらされながら堀さんも松沢もバテ気味である。私も途中から加わり、100歩登っては2分ほど休みながら行く。
斜度はだんだんきつくなり、太陽は遠慮なく炎を投げ付けている。何回繰り返したであろうか。最後の上りとなりタンボチェゴンバに到着する。
エベレストへ登る人は必ずお参りするという、この寺院はさすがに立派である。僧侶たちはエンジ色の衣をまとい、あちこちに大勢いる。おそらく修行中と思われる若者が多く目につく。
長い石段を上りゴンバの本殿に入り、お賽銭を供えて山行の無事を祈願する。すがすがしい気分となりテント場へ行く。テント場はエベレストをはるかに望む高台にあり、大きなヤクがあちこちでのんびりと寝そべりながら休んでいる。今日からは本格的なキャンプ生活となる。(*チェとは仏様が歩かれた足あとで平らなところという意味)

10月28日(月)晴れ
タンボチェゴンダテント場発7時55分。ゆるやかな丘陵地をエベレスト連峰を望みながら下る。春にはさぞかし楽しいしゃくなげに彩られるであろう林の中を下る。途中登ってくる欧米グループに大勢会う。「ナマステ」と声をかけ、励ましあう。彼等は上りなので息遣いも荒い。下りきったところのしゃくなげ林の広場、この奥に尼寺があるという。パンボチュ着9時55分。お茶タイムとなる。前方にタウチュヌプチェ、ローツェシャブ、ローツェ、エベレスト。右後方にタムセルクカンテが、アマダムラムとすべての山々が見える絶景の地であるが、ここに長くとどまるわけにもいかない。景色を楽しみながら、高度に苦しみながら登る。チョマレビレッヂにて昼食。(4040メートル)ディンボチェテント場着2時30分(4343メートル)主要なテント地らしく空いている場所がなく上部となる。正面に目指すアイランドピークが姿を見せてくれる。今夜と明日ここで2泊し、高度順化のため1日ゆっくり上り下りして、体をならす予定という。戸塚広子さんと2人テントを共にして5泊目、楽しい山行ができてよかったと思う。隊員全体が少しずつ高度に慣れてきたようだ。食事もコックさんの味つけもよく美味しいが、夫宗洋は昼食のラーメンは食べず信濃の味噌パンを食べたほかはお茶とフルーツだけ、膝の痛み止めで胃が少し荒れたようだ。夕食までの間、お湯で顔を洗い足をふき、戸塚さんは洗濯をする。私もくつ下を一枚洗ってもらう。暖房用のガスバーナーの試験もOKとなり、バーナーで湯をわかしてお茶とくず湯を食す。宗洋は食欲なく、大町の柴田製菓さんより差し入れてもらった、氷もちの粉とぶどう糖、おかず少々で夕食を済ます。今日からは痛み止めの飲用をやめることにする。私は食欲いたって好調である。

10月29日(火)晴れ
昨夜は2時半頃トイレに起きた。満天の星はあまりにも近く、アマダムラムはすぐ目の前にそびえたっている。圧倒され恐ろしくなり、あわててテントに入る。夢の中に長女が出てくる、日常生活を一生懸命こなしている姿と、他家の出火を消している姿。日本では皆無事にいてほしい。もし私がいなくなったら等と、うつらうつらしながら考えた。昨夜は同じテントの広子さんの身の上話も聞き、女の生き方の多様さを痛感する。今日はここディンポチェ延滞して高度順化をはかる事になっている。8時30分テントサイト発。白いチョルテンを回り急登を行く。始めのうちは隊長にしっかりついて行けたが、途中からの急登に足が出なくなった。日常の筋力トレーニングがいかに大切か思い知らされた。西欧のグループが長い足で登ってくる。若い男女である。笑顔で「ナマステ」と言われホッとする。12時頂上着。非常食の味噌パンとビスケットを食べ下山、今日は若いシェルパのミンマ君同行してくれた。昼食はいつも11時半にいっぱい食べていたので、今日はガソリン切れの様相となる。食べなければ歩けないよ!テントサイト着2時20分、終着を待って昼食となる。夕食前アイランドピークへの、登頂用具をこのサイトに預けて、カラパタールへの支度をし眠る。今夜からは持参した携帯トイレをそばに置いて寝ることにする。

10月30日(水)晴れ
AM7時55分、ディンボチェテントサイト発。ゆるやかな道を登り、白いチョルテン地点で、昨日のトレーニングルートを別れ、ゆったりとした平たんな斜面、ビートを敷き詰め、糸魚川真柏のような盆栽がいたる所に自生している広い道を、エベレスト氷河を下方に見ながら、ゆっくりペースで歩く。高度があるため呼吸も苦しい。松原隊長もゆっくりペースだが、後から着いていくのが大変だ。10時30分チュクラの昼食処着。11時昼食を済ませる。タウチェ峯の尖塔に残月が名残惜し気に薄い影を見せて、テントサイトの昼はのんびりと過ぎていく。コ−リアの人、アメリカの人、フランスの人、ありのままの姿の山々。ヤクや牛の背による運搬、ヤクのふんを乾燥して燃料にしている暖房、すべて自然と太陽の恵みによる生活を、われわれも現地の人々とともに楽しませてもらっている。テントサイトのロッヂを営む、背の低いしわのよったおじさんは、ゾッキョ(雌ヤク)を何頭か持っていて、私たちの食糧や荷物を運んでくれていた。日数がたつにつれ、笑顔で接してくれるようになった。
昼食地より1時間ほどの所、賽(さい)の河原のような広場があった。サーダーの話によると、エベレストで遭難死した人々は、ここで荼毘に付されて遺骨を持ち帰るという。夢を果たせずに逝ってしまった彼等の冥福を祈るとともに、自分たちも事故のないよう、身を引き締めた瞬間であった。ロブチェのテント地着PM2時。私は腹ぺこだったので用意されたお茶とおやつにむさぼりついた。ここからは目的地カラパタールは望めないが、ヌプチェ峯を正面に名峰が美しく迫る所である。
さすがエベレスト街道、数件あるロッヂは満員で食堂を借りる事ができず、キッチンテントが張られ、私どもの専用トイレも仮設された。今日は5100メートルのサイトで眠る事になる。隊員それぞれ、苦しい山行であったが明日に備え早々に眠る。

10月31日(木)晴れ カラパタールへ
朝4時起床、5時出発。ヘッドランプの灯をたよりに行く。隊長の後をついて石の多い道を行く。足もとだけを見て黙々と歩いていく。ゆっくりだが確実な歩調だ。少しでも遅れるとついて行けなくなるので必死だ。私の後は夫、横山さん、戸塚さんと続き、サーダー、若いシェルパの順である。堀内さんは体調悪く、カラパタールはあきらめた。休憩なしで2時間ほど歩く。若いシェルパ、セルキ君が私の荷物を持つという。ウエストバッグもというが腰回りが寒くなりそうなので断る。松原隊長が「姉さん、しっかり順応したね」と言ってくれたが、歩調はだんだん遅れ気味となる。1時間ほど歩き、皆集合し上衣を外し身軽くしたが、谷風は肌を刺すように冷たく、ストックを握る手が冷たい。
隊長に「一人ひとりが責任をもって歩くように」と言われ、私も若いシェルパとともに自分なりのピッチで進む。「ママさん、エベレストです!」という声に頭を上げる。あこがれのエベレストが見え始めた。快晴の空に雪煙をあげて私を呼んでいる。30分ほどで「カラパタールです」という。黒い三角型の何の変哲もない、荒涼とした峯が見える。あれが目指すカラパタールなのかと少したじろぐ。
ゴラプシェプロッヂ着、7時20分。「ティータイム?」と聞くとそうだという。しかし隊長はと見ると、白い砂の広場を超え、斜面をすでに登り始めている。シェルパがあわてて呼んだが、聞こえたのかどうなのか、きつい斜面をゆっくりと登って行く。私はトイレに寄り、ロッヂの中に用意されたお茶をいただく。中は大きなストーブがたかれ、心地よくぬくもっていた。ストーブの中身はヤクのふんを乾燥したものだが、においもせず暖かい風が体を包んでくれる。夫は横山さんとともに、戸塚さんはパサンとともに少し遅れて到着する。8時前、私がトップでゆっくり登る。途中夫が追いこして行く。サーダーと夫が3分の2地点で「そのペースじゃ第2ピークは無理だから、第1ピーク(以前のトレッカーの頂上)にしたらいい」ということになり、私と戸塚、横山さんはコースを変える。夫はサーダーとともに隊長の待つ最上部を目指す。第1ピーク登頂。エベレストが目の前にそびえている。エベレストだけが雪煙をあげ、他の名峰は従者のように連なっている。この空の色を何と表現しようか、厳しくも美しい峯々は、宇宙に続く空を背景にどこまでもそびえ立ち人間の及ばない世界を構成している。ここから望む峯々に、岳人はあこがれ、何とか手段を尽くして登ってはいるが、果たしてこの峯たちは人々の行為を迎え入れているのだろうか?登頂に成功し、時には失敗している人々の行為、自分の人生が小さく思えた。


カラパタール頂上にて
そんな思いをいっぱい与えられ、もう来る事もないであろうこの峯で、それぞれ写真をいっぱい撮って下山した。登るときの苦しさは薄れ、3人とも鼻歌交じりで下る。シェルパの若者はレッサンピリリを歌い、私たちは山男の歌を彼等とともに歌いながら下った。
ロッヂには昼食が用意され、隊長は待ちかねて食べ始めていた。おにぎりとおいしそうなおかずがお皿いっぱいに盛られていたが、今日は私も食欲がない。隊長だけはすべて食べ尽くした。
ゴラプシェプロッヂを12時出発、長いだらだら道をゆっくり下山する。シェルパのセルキ、サーダーも私どもに歩調を合わせてくれる。早めに下山した隊長と堀内隊員に迎えられ、テントに着いたのはPM3時だった。夫はエベレストを間近にし最も感激したようだ。私と2人でエベレストを背景に写真を撮った時は、涙をこらえきれず、眼鏡の奥で涙をポタポタと流して鼻をかんでいた。

11月1日(金)晴れ
今日はビンボチェテント地へ下るだけ。ゆったりと目覚めたつもりが、鼻血に見舞われ、広子さんのチリ紙をいっぱい使ってしまった。
昨日の記録を整理しながら時を過ごす。隊長がコーヒーを沸かしてくれ2人ありがたくいただく。薄めのコーヒーが目覚めの乾いたのどを心地よく潤してくれる。
2人が外に出ると、4人ともすでに支度をして待っていた。キッチンテントでさわやかに満ち足りた朝食をいただく。やわらかい朝の日射しに包まれて、カラパタール登頂を終えた隊長は、それぞれゆったりとした表情に見える。
9時発、3日前に来た道を下る。こんなに石がゴロゴロだったのかと、あらためて登りのきつさを思い出す。エベレスト登頂を果たせなかった、世界中の岳人の墓石を右手に見ながら、聖なる地を後にした。
2日前から下痢気味だったので、ロッヂのトイレまで我慢して大急ぎで入る。すっきりしたが後味は余りよくない。デポして来た薬の事を思い、他の隊員に尋ねるが誰も持っていない。「薬は飲まない方がいい」という隊長。下へ行けば治るという人。まあ昼食後に百草丸でも飲もうと自分なりに思う。少し空腹気味となり時々腹がグーとなる。「その分じゃ下痢もすぐ治るせ」と言われ、そんなもんかと思う。
白い目玉のある塔のある、チョルテンを過ぎると、今日のテントサイトが見え、黄色いわがテントに張られている。10分ほどで昼食が待つテント地に到着した。
昼食後は夕食までのんびりと時を過ごす。今、私の相棒はいびきをかきながら、午睡を楽しんでいる。テントの回りで草を食べているのか、カランコロンと心地よくヤクのカウベルの音がする。今夜はカラパタール登頂成功パーティーということで、ビールが2本出るという。

11月2日(土)晴れ AM6時起床、7時朝食、8時出発
昨夜は遅くまで回りがにぎやかで寝つかれなかった。夜中は隣のテントとともにいびきの合奏となる。
ゆっくり歩いてチクンを目指す。ローツェが目前左方の座を専有し、中央にアイランドピークが低くそびえ、今まで無名だったという、イイヤマのヒマラヤ襞が立派だ。隊長の後からゆっくりついていく。
今日の行程は3時間から4時間、一昨日より下痢気味となり、正露丸3粒飲む。カラパタールより帰った時より、標高は200メートル高く、気だるさはひとしおだ。肌を刺す風は寒く、窪地で風を防ぎ休憩する。
1時間ほど歩き、高台の岩の上に登ると、チクンは目の前でロッヂが5軒ほどあり、黒曜石のような黒い平らな石を敷き詰め、庭がきれいで石段が整然と積まれ、大邸宅の入り口のようだ。このロッヂのレストランからは、下方の河原を前景に、今まで歩いた行程がよく見渡す事ができる。
広いガラス窓のある小ぎれいなロッヂで食事をいただく。夕食は全員食べられ体調もよくなったようだ。デザートの時、隊長より明日の行程説明を受ける。個々の体力と隊長により、BC(ベースキャンプ)からAC(アタックキャンプ)、そしてアタックとの説明、始めて5000メートルを踏んだ2人も、今までは順調だったのでこれからの3日間、体調を整えて臨むようにという。隊員それぞれ感じ入って聞く。今夜はよく眠れそうだ。携帯トイレは順調に活躍している。

11月3日(日)晴れ
6時前トイレに起きる。アマダムラブに陽が射し始め、ローツェの山頂も輝き始めていた。夫のテントに行き、カメラを受け取り、チクンテント場からの朝の山々を撮る。1頭子牛もモデルになって、私のカメラに協力してくれた。
朝食7時、8時出発。BCテントサイトまで4時間コースである。ゆっくりとした隊長の歩調に合わせ、皆順調について行く。今回、全日程のなかで、松原隊長と歩調を合わせて歩いたのは今日だけだったかもしれない。最後の日程を確実にこなして行こうという、気迫のようなものが感じられ、5人の隊員はゆっくりついて行く。前半は時間通りの行程だったが、イタリア隊とすれ違ったときから、後の4人との距離が開いてしまう。350メートルの高低差を4時間かけて進む。
途中、広い砂の広場が1キロほど続いた場所がある。海母石が風化した所、限り無く細かい砂がキラキラ輝いている。アイランドピークがその壁の上にそびえ、明日からのコースの厳しさを物語っている。私は足下だけを見て、隊長の後をゆっくりと行く。
2度目に通過した広場も同じ程のスケール。サッカー場がいくつもできそうだ。始めの広場と違い、花子砂の細かい砂で、歩いただけで舞い上がり、鼻や目に入る。谷間から吹く風は冷気に満ちて、ストックを握る手は冷たくなる一方だ。片方のストックは隊長に預け、手を首の間に入れ温めつつ進む。
7時に朝食。お茶タイムにビスケット2枚食べただけなので空腹で腹が鳴る。もうBCも近いはずというがなかなか現れず、足はだんだん重くなる。
ようやく現れたBCは河原の中の平地を、テント場としたところで、すでに10張りほどの先着パーティーがいる。
12時45分、後に着いた隊員とともに遅い昼食となる。風が強くテントを張るシェルパやポーターたちも寒そうだ。キッチンテントでコックさんの心づくしの食事をゆっくりとり、テントで眠る。私も顔がむくんだが、広子さんはパンパンの丸顔となり苦しそうだ。
お茶のとき、明日からの行動説明を受ける。停滞予定日の明日は、朝ゆっくり出発して、全員でACまで往復するという。BCからACまで500メートルの高低差を、どれぐらいで登れるか、私の体調、少し頭痛はするが下痢は治った。
テントの出入り、特に寒いのでトイレが苦痛となって来た。夕方5時近く、雪がチラついて寒さは厳しさを増してきた。

11月4日(月)晴れ
朝食7時半。5500メートルのACまで往復する行程である。
8時30分BC出発。河原の石がゴロゴロした中を隊長のピッチに合わせて行く。広子さん、BC停滞となる。10分ほどで左手の茶色い山肌を登りはじめる。「えッ、この急斜面を登るの?」と思いながらついて行くが、どんどん距離は離される。サーダーが後ろ組についてくる。「ゆっくりでいいですよ」と言われ、ゆっくり登る。あまりの急登に息は切れ、足は重い。呼吸の方は少しずつ慣れてきているが、今さらながら体力のなさを感じる。4年前のゴーキョピークの登りよりきつと思う。
9時半、大休止。サーダーがおいしいチョコレートをだしてくれる。1本全部平らげ、お茶を飲み、10分後に登る。谷風が寒く、冷気は襟元や袖口から入り込む。しっかりファスナーを締め、高所用の手袋をして登る。
AC着11時10分。きついきつい登りだった。隊長はシェルパのニーマとともにはるか上の稜線にいる。お茶を飲みながら2人の帰りを待つ。パサンが香味のきいたハムを切ってくれた。おいしかったが日本から持ってきたマルハのソーセージの方がうまいろ思った。
11時40分、隊長とニーマと合流し下見を終了。ルンゼ状の登りはきついが、予定通り登れそうと隊長は言う。岩陰にブルーポピーがドライフラワーとなって咲いていたと言う。その場所までいってみたいと思った。寿子66歳、体力のなさを痛切にかんじることしきり。サーダーいわく、私どもの知人M氏はACから上部は酸素着用で登ったとのこと。夫も私もそこまでして登頂した方がいいのか思案する。結論は今夜の夕食後と言うことにして、ガラガラ道を慎重に下る。
BCでは広子さんがテントの中で待っている。夕食は食欲なく半分いただく。松原隊長だけは「食べなきゃだめせ」と変わらない食欲である。明朝はAM2時朝食、3時出発、隊長とサーダーのみのアタックとなり、ほかはBCに待機となる。

11月5日(火)晴れのち曇り
AM2時、広子さんとともに目覚め、隊長を送る事にするが、2人とも頭は覚めても目が開かないという状態である。目薬をつけて30分後にようやく目覚める。AM3時、「パサン行くか」と言う声で、出発を知る。2人で「いってらっしゃい」と声で見送り、そのまままた寝る。残留組5名はBCでゆっくりし、朝食を9時に済ませる。9時半頃、若いシェルパ セルキ君が昨日ACへデポしてきたわれわれに、登はん用具を担いで下ってくる。「バラサーブとサーダーがもうそろそろBCへ到着する」と言う。私は広子さんの頭痛が治まらないので、とりあえずチクンまで下るつもりで荷物を用意しているところだった。
10時少し前、パサンがBC着。バラサーブもすぐ来ると言う。あまりの速さに皆びっくりする。松原隊長の姿が見えてくる。感激のあまり急ぎ足で迎えに出る。AM3時から10時の7時間でBCから頂上アタック往復を果たした隊長とサーダー。松原隊長の右手にはブルーポピーのドライフラワーが一輪、しっかりと握られていた。夫をはじめ全隊員、隊長とパサンを握手で迎える。松原氏はサングラスを外し涙をぬぐっていた。感激の一瞬であった。


アイランドピークを背に5550M地点
私は頭痛を訴える広子さんとともに、一足先にBCを出発する。チクンまでは登る時も長い行程だったが、だらだらとした道を下る。後発隊はBCで昼食。私たちはチクンでヌードルの昼食をいただき本隊を待つ。夫宗洋、堀内さん、横山さん、松原隊長とともに今日のテントサイト・ビンボチェまで無事下山する。心なしか広子さんの顔も少し、しぼんだようだ。
アイランドピーク登頂成功おめでとう!
コック長の心づくしの夕食はおいしく、全員が喜びと安堵に浸っていた。アメリカ人グループ8名が同じテントサイトで、夕食会場をともにさせてもらえた。ロッヂのストーブは赤々と燃え、心地よい暖かい風を送ってくれた。デザートはチョコレートケーキ。コックさん得意のしっとりとした上品な風合いを醸し出している。隊長の手助けをしながら、私もカットさせてもらう。1本のローソクにこめられた思いを大切に、「登頂おめでとう!」と会場全員が祝福してくれた。今日は記念すべき最高の一日であった。
日没、テントサイトから眺めると、アイランドピークも、ローツェもアマダムラムも、すべての山々に霧がかかり、今日が登頂に最適の日であったことを物語っていた。

BCからテントサイト・カトマンズへ。
11月6日(水)高曇り

下山2日目。今日はポルチェタンガまで下る事にする。情報によると、ネパール政府の政情不安により、近日中に空港が閉鎖されるかもしれないという。少しでも早く、カトマンズに行くことが望ましいようだ。
下山途中、タンボチェ寺院までの登り道の手前、石楠花(しゃくなげ)の林の中にある尼寺へ寄せてもらった。若いシェルパのセルキ君の案内で、寺の中へ入れてもらうことができた。古い寺院の入り口は3段程の石段があり、両脇に秋の陽に包まれた空間があり、そこでまだ幼さが残る尼さんが、無心にジャガイモをマッシュして、天日で乾かしていた。ヤクの毛で編んだ厚いカーテンを開けてもらい、寺の中へ招かれる。鮮やかな仏像を中心に、3人の尼僧たちが経を読み上げていた。私たちは彼女らの前に座し、お祈りをさせてもらった。手招きされるままに、美しい三仏の前へ行き祈った。私は南無阿弥陀仏を唱え、今回無事下山させてもらっている事に感謝を込めた。
尼寺を辞し、先に行った隊員を追う。タンボチェ寺院の石垣のところに堀さんが待っていた。長野の家へ電話し、全員無事下山中と知らせてくれたと聞きホッとする。
ポルチェタンガテントサイトへ着いたのはPM3時、長い石の道の下りはきつかった。今日の尼寺訪問は私の人生に大きな1ページを加えてくれたようだ。

一、エベレスト 遥かに望む尼寺の 読経の中に 我はぬかずく
一、谷あいの 古き尼寺訪えば 尼僧は優しく バター茶すすむ
一、尼僧らの 衣の中にかくれたる しなやかな身の 鋼のごとく
一、しゃくなげの 咲き誇る季(とき)訪ねたし この尼寺の華やぐ頃に

11月7日(木)曇り


パサン夫妻より戴いたカターを首に巻いて
ボルチェタンガからナムチャバザールへ。昨夜は"光の祭り"ということで、ここボルチェタンガの集落でも、子供や若者たちが笛や太鼓で各家を回り、物乞いをして楽しんでいた。
今日のキャンプサイトには他には誰も居ない。登るときに比べ、下山となると早いスピードで距離を稼ぐ。どんどん下る道は厳しく、両手のストックを頼りに石と石の間を、バランスをとりながら、滑らないようにゆっくりと下る。広子さんは、すっかり元気になり、元の美人になってメンバーたちを盛り上げ、楽しい山行を続けることができた。
ナムチャバザールでは、あちこちに有刺鉄線を円形にしてふさぎ、迷彩服のアーミーが検問していた。
異国の登山者たちが行き交う中、私たちはパサン家の人々が待つブッタロッヂへ着いた。奥さんと孫たちの笑顔に迎えられ、懐かしい我が家へ帰ってきたような気持になる。私と広子さんは特別にシャワーを使わせてもらう。
夜は盛大な下山祝いパーティーが準備され、同宿の人々とともにビールで乾杯。おいしい夕食をいただく。

シェルパ等の くつろぐ笑顔に誘われて 日本の山うた 皆口ずさむ

11月8日(金)晴れ
ブッタロッヂにて朝食後、カターを肩に掛けてもらい、それぞれ感激に浸る。出発間際に、パサン家次男の嫁さんヤンジーが、メンバー全員の首に魔よけの首飾り(ヤクの骨で彫ったもの)を掛けてくれ、日本に行きたいので呼んでほしいと頼まれる。「日本語を少しでも使えるようにしておいてね」と言って別れを惜しんだ。
もう一度訪れてみたいナムチャバザール、ゆっくりと懐かしい峯々はだんだん遠のいていく。

エベレスト 遠のきゆきし帰り道 雪煙りあげ 惜別遥かなり

PM2時、パクディンのテント地着。今夜は広子さんと"うどん"を打つ事になる。夏に船窪小屋で、秩父の沼田先生一行に教えてもらった打ち方で私がうどんを打ち、宏子さんがてんぷらを担当する。食堂で待ちかねているメンバーに早く食べさせてやりたくて、力持ちのシェルパやキッチンポーターの手助けにより、腰の強そうなうどんができ上がった。皆うまいうまいと大喜びで平らげてくれた。今夜は胃腸も喜んで、ゆっくりと寝れそうである。

11月9日(土)晴れ
今日は最後の下山日である。ネパールの政情が混沌としてきているとの情報に、我々も一抹の不安を抱きつつの山行であったが、これと言った具体的な事件もなく、ここまで来る事ができた。
山行も無理なくこなし、カラパタールへ登頂も成功した。カラパタールはアイランドピークへの予行訓練のつもりであったが、意外に厳しい登りで隊員を苦しめた。メンバー6名のうち、堀内隊員は高度順化がうまくいかず、ディンボチェテントで場で待った。彼得意とする素晴しいスケッチが、この時も幾枚か描かれ、私たちに夢のくれた。
そして、次の日はゆっくりと停滞し、翌日はアイランドピークBCへ。5100メートルのBCは厳しく、戸塚さんの高度順化を最後まで阻んだ。BC2日目はAC5400メートルまで行き、隊長のみセラックを越えて下見をしに5600メートル地点まで行く。
翌日は隊長とサーダーのみの、アイランドピークアタックとの結論となり、AM3時、BCを出発し、驚異的な速度でアタックを終え、AM10時、2人ともBCへ帰ってきた。この時の隊長の涙は今も忘れる事ができない。
限りなきロマンと夢、大自然と現実の厳しさ、体力的な課題、ヒマラヤ、カラパタールとアイランドピークへの山行は、そろそろ終わろうとしている。今夜はシェルパやポーターたちと過ごす最後の夜である。若い彼らには感謝の言葉を忘れないようにしたい。

11月10日(日)晴れ ルクラーカトマンズへ


カトマンズ市内観光でクマイの館にて
ルクラの飛行場は、いろんな国の人々が往来する、国際色に満ちた所である。シェルパやポーターたちは、われわれ日本から来たトレッカーより、はるかに国際人なのかもしれない。
彼等のサービス心にあふれた接客には、たくさん学ぶところがある。若いシェルパたち、キッチンポーター、ボーイたち、それぞれ20歳から25歳くらいの若者である。日本の若者に比べれば、あまり恵まれた環境に生活していない。しかし、日常生活のなかで学んでいる国際性については、日本の若者より身に付けるチャンスが多いと思う。今、王室で起きている改革の嵐の中で、彼等のそれなりに変革して行く事であろう。行く末は平穏では無さそうだが、ヒマラヤの美しい自然は、いつまでも変わらないでほしい。彼等の未来が希望に満ちている事を祈りながら、別れを惜しみ飛行機に搭乗した。
イエティ空港のグリーンの機体がわれわれをのみ込み、あっという間に懐かしい秀峰は見えなくなった。
カトマンズ空港へ9時20分着、10時半シェルパホテル着。近くにある「古都」にて日本食に舌鼓をうち大満足となる。

11月11日(月)12日(火)晴れのち曇り
夏に船窪小屋に来ていたペンパラマが、今日は昼食を自宅でもてなしてくれるという。彼の迎えを受け、皆徒歩にてついて行く。夫は足が痛いと言って、ペンパ氏の息子のバイクに乗って行く。
ペンパ家は5階建てのアパートの一角にあり、たっぷりを太った奥さんが、にこやかに迎えてくれた。お茶とお菓子をいただき、お昼は奥さんの手作りギョウザだった。山小屋で、帰国したら奥さんのギョウザが食べたいと言っていたペンパさんの気持がよく分かった。次々と接待してくれる彼女は、なかなかのもてなし上手だと思った。養子と聞いた息子は15歳で、将来はパイロットにしたいという。
しばらくして、思いがけず白馬で喫茶店をやっている山里さんが2階から下りてきた。彼女は時々ネパールに来て、日本人をガイドしていると言う。「世間は狭いね」と喜びあう。
夜はパサン家にてお世話になる。サーダーパサンヌルブは、次のトレッカーを案内してすでに出発していた。
昼間はペンパラマの案内にて目玉寺へ行く。カトマンズはマオイストたちの暴動を警戒して、お店はすべてシャッターを下ろしていた。余ったルピーを使ってしまおうと思っていたが何も買えず、日本のお土産はないことにした。
昼食は奥さんと息子たちが作ってくれたハンバーグ定食をごちそうになる。満腹となり、皆眠ったりしてのんびり過ごす。夕食は手作りギョウザろ地酒で、家族全員のもてなしを受ける。
パサンの奥さんは、われわれをもてなすために、わざわざナムチャバザールから来てくれた。孫たちもなついてきた。長男ミンマの女の子、次男チェリンの男の子、2人とも仲良く育てられ双子のようだ。堀内さんの紙飛行機がお気に入りで、楽し気に遊んでいる。次はいつ来れるか分からないが、彼等は確実に成長しているであろう。
夜11時35分カトマンズ発が、13日AM4時半となり空港へ行ったら、またまた出発時刻は大幅に遅れたようだ。空港のベンチで夜を明かし、関空へは14日夜9時着となる。新大阪駅付近のホテル泊、栂池着15日PM2時。23日間の山旅は無事終了した。


この旅行機を書き始めたころ、12月末にパサンヌルブの訃報を知りました。知らせによるとハートアウト(心臓マヒ)とのことでした。あまりの突然なことに隊員の悲しみは深まるばかりですが、いつか彼の追悼にナムチャバザールを訪れたいと思っています。
なお、私のつたない山行記録を掲載していただくために、貴重な紙面をお貸し下さいました本誌に、改めて感謝とお礼を申し上げます。

松澤寿子