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ふなくぼ だより
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2005 2月号
昨日降った雪の除雪を終わり、2人でプールへ行き帰ってきたら、内川夫妻が来ていました。ご夫妻とは40年前、船窪小屋へ来られたのが出会いのはじめでした。立山から五色が原を経て平の渡、針ノ木谷より船窪新道を昇って来られたのです。丁度、長女いずみを連れて、私共親子が船窪小屋に居るときでした。お二人はまだ子どもが居らず、新婚の頃だったと思います。あのときの出合いが、40年を経た今も続いています。思えば親類以上のお付き合いになりました。
あの頃は大町駅前に旅館”七倉荘”を両親と共に建て、旅館を始めたばかりでした。夫が一人で山小屋にいるのではと、娘を背負って七倉尾根を登ったのでした。
夫は長男で五人兄弟、義父は大工でしたので、北小谷の家を大町まで運んで移築し、旅館を始めたのです。お客さんも少なく、船窪小屋だけでは、生活も成り立ちませんでしたので、七倉荘を建てました。そして一年後に二人の生活の糧を求めるため、栂池高原にスキーヒュッテを建てる計画を立てたのですが、資金がありません。そこで夫は船窪小屋へおいで下さるお客様にご協力してもらえないかと声を掛けさせてもらいました。計画書を送らせて雄もらい。一口5万円で協力者を募りました。40名ほどの方にご協力を得ることが出来、その中に内川ご夫妻も居られたのです。
長女いずみが誕生し満一歳となった昭和39年11月、栂池高原スキー場に”白馬ベルグハウス”を建築することができました。夫も私も27歳の冬でした。大勢の方々にご協力をいただいて白馬ベルグハウスは栂池高原の丘の上に建築されました。
時はスキーブームの始まる頃でした。始めてのスキー場ヒュッテの運営は大変でした。裏山から村の人たちの残り水をもらって引き、水道に結んだのですが、気温がー10℃頃になると、引いている黒いホースごと凍ってしまい水が出なくなります。300mもあるホースを男のアルバイトと共にストーブのあるホールに撤収し、ホースの中にある氷を全部出してから又つなぐという作業を、夜を徹して行ったこと・・・・など、今思い起こせば数知れなぬ困難の連続でした。
あの頃のバイタリティーはどこから生まれてきたのか、”若い力”があったから、特に私や夫に協力してくれた兄や両親、友人や仲間、アルバイトの皆さんの”力”が結集出来たからだったと思います。40年と言う年月は長い年月でしたが、知らぬ間にすぎてしまったようにも思えます。
内川ご夫妻を筆頭に、船窪小屋、白馬ベルグハウスにご協力くださり、親しんで下さった、大勢の皆様に謹んで感謝しております。
内川氏は今シーズン3回目です。12月末と年始、そして今回は奥様と。プールから帰ったのが遅かったので自宅の方へお招きして、”今年もよろしくお願いします”と祝杯をあげさせてもらいました。27日は快晴です。私の足も多少の違和感は有りますが、大分よくなりました。ご夫妻と共に今シーズン初すべりをすることにしました。冷気に満ちたゲレンデは雪も”キュッキュッ”となって、空はどこまでも深く青く、白馬連山には時々雪煙が舞い上がり、絶好のスキー日よりです。お父さんは素早く準備し”チョッ一本やってくるワ”といってチャンピオンコースへ飛び出して行きました。内川夫人は昨日に続いて2日目、私はもたもたしながら何とか支度が整いました。4人がゴンドラに乗り一路山頂へ。久し振りのゲレンデが私を呼んでいます。
AM10時〜12時まで私服の2時間はあっという間にすぎてしまいました。次の朝、ふくらはぎに痛みが残りましたがどうやら屋根雪に傷まされた右足は除々に回復して居るようです。
孫隼人と
内川夫妻と
1月28日(晴れ)
加賀美氏が忙しい合間を縫って、ベルグハウス40周年記念”幸せの黄色いバンダナ”を持ってきてくださいました。
船窪小屋のバンダナをデザインしてくださった方にやっていただき、素敵なバンダナに仕上がりました。黄色地に黒でベルグハウス全景とカモシカの親子、水芭蕉とカタクリが巧みに調和しています。”加賀美さんありがとう!”
彼は一泊して、出産間近い優子、お父さん、寿子、アルバイトのケガ、お客様足等、いっぱい施術して、29日PM3時50分のバスで帰っていかれました。
29日早朝、お父さんはまり先生と諏訪大社の守山”守屋山”へ行きました。
30日、31日、1日、2日は大寒波のため大雪です。
今夜は節分、優子の出産も今夜辺りかなと思います。
大町病院での出産ですが、雪がやんでくれることを祈っています。
松澤 宗洋 寿子
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