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ふなくぼ だより
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2005 4月号
4月12日 (火)
2m余りあった雪も、春の日差しに誘われて、だんだん溶けてきました。それでもゲレンデは例年に比べたら3月中旬くらいの積雪があります。
3月29日、孫”志保”のお宮参りと初節句を済ませました。中津川の両親と、息子夫婦、私が志保を抱き、鳥居が半分雪に埋まった賛同を、長靴履きで神殿に向かいます。雪道になれない優子と香代子さんは、よろけながら後ろから着いて来ます。大事な孫を抱いている私は、2人のことはさておき、この孫を無事神殿に届けねばと、バランスをとりながら、雪の道をサッサと直行します。まだ神管さんは来ておらず、到着を待つことにしました。
(内孫志保と)
10分ほどして、神管さんが姿を現しました。年を重ね80歳を越えて居られる神管さんは雪の参道を衣装鞄を担いで、両端によろけながら近づいてきます。「待たせたね」「いいえ、お世話になります」と言葉を交わします。本田の扉が開き、晴れ着の中に埋まって眠っている”志保”を抱きなおし、広い畳の間に正座します。姿を整えた神管さんは見違えるように立派になり、厳かに祝詞を上げます。
太鼓が響いても志保はぐっすり眠ったままです。神管さんの指示に従い、両親、祖母2人が参拝します。若い父親はしびれがきれ、立ち上がれないほどです。この子一人のために雪深い神殿を開いてくださり、宮参りをさせていただいたこと、深い感銘を抱きながら、戦国諏訪神社を後にしました。
ベルグハウスに帰ると、親戚縁者13名と孫5名他が揃って出迎えてくれました。今日は宮参りと初節句ということで、お昼の祝宴です。日本海直送のタイの生造りの船盛りが豪華です。
(孫達と)
”志保ちゃんお芽出とう。雪深いこの高原に生を受けて50日目、すくすくと育ってくれありがとう。これから貴方はベルグハウスと松澤家の希望です。健康で優しい女の子に成長してくださいね。”志保の内祝いも終わり、ホッとした3月31日、朝の陽射しが白馬連峰を照らしています。お父さんは徳島の江川氏と共に、天狗原までツアーに出発です。私は昨日と待った内川夫妻、中津川の両親を見送り、片付けを済ませ、早昼を食べて、スキーに行くことにしました。江川氏とお父さんは強風のため、天狗原下から、こちらへ滑るとのことです。
これから登れば栂ノ森辺りで、落ち合えるかなと思い、バイトの美奈子ちゃんと行くことにしました。先日、甲府の戸沢君がサロモンの板を手入れしてくれたばかりです。「おばちゃんしっかり磨いておいたからね。滑りやすいと思うよ」と言って帰ったばかりです。私のためにスキーを手入れしてくれる人は皆無でした。今日こそ滑りを確かめて、栂ノ森からハンノ木コースを滑ってみよう。と密かに期待しながら、出かけたのでした。栂ノ森でゴンドラを降りると、雪がはげしく降っています。このゲレンデで2人を待とうと思ったのですが、視界がよくありません。「美奈ちゃん2人に会ったらお母さんは滑って帰りました。と伝えてね」と言って別れ、一人でハンノ木コースを滑り下りました。
(江川氏、夫と)
第3リフトの上部は一番苦手な場所です。雪も激しさを増し、ゴーグルも曇ってきました。ゆっくり下るつもりが、スキーがよく滑りすぎ、身体がついていけなくなり、バランスを崩し、新雪の重い雪の塊に突っ込んで転んでしまいました。しばらく倒れていると”大丈夫ですか?”と声が掛かりましたが、そのまゝ居なくなってしまいました。何とか起き上がったのですが、右ひざの内側が痛い!
2ヶ月前、屋根雪が落ちて痛めた、右足を又同じように捻ってしまいました。「あゝ又やっちゃたーッ」ととがっかりしてしまいました。
折角春に向け、体力をつけようと思ったばかりだったので、「ガクーッ」といったところです。漸く立ち上がって、どうしようかと思っている所へ江川氏を伴ってお父さんが滑ってきました。「女房ですよ、お前どしたーッ」「転んで捻ったみたい」「まあゆっくり滑って来いよ」行くぞーッ、と2人共行ってしまいました。なんて薄情なと恨めしい。何とか滑ってベルグへ帰り、自宅へ行き、湿布をして寝てしまいました。患部はだんだん痛みを増し、夕食ものどを通りませんでした。
4月7日快晴
”夫のゆく あの山路を案じつつ 等高線の狭き図を見る”
お父さんと2人で雪の消えないうちに七倉尾根へ行き、登山口からのコースを新しく付け替えるべく、下見に行く予定でした。
寿子が怪我をしたため、2人で行くことが不可能になってしまいました。「雪のあるうちに行かないと」と言うことで、先日2日に出かけていきまいた。本当は一人では行って欲しくないのです。七倉谷からは携帯も通じないし・・・と思っていたのですが7時には朝食をとり、行ってしまいました。
七倉沢を辿って途中から尾根にでるのですが、「行けないようならすぐ帰ってきてネ」と、くどくど言って見送ったのですが、帰ってくるまで気が抜けません。PM4:00「今、葛温泉だよ」という電話をもらい、ホーッとしました。夕食時、一杯やりながらの話、七倉登り口から30分は沢沿いにゆったり登れたが、それ以降は硬い雪の斜面をステップを切りながら登るワカンジキだけだったので”オッカナクテ”途中で引き返した。
赤布の標印は10枚つけて、帰りはそのまゝもと来た道を引き返したとのことです。
この分だと唐沢のぞき迄の中間点くらいとのこと、次行くにはアイゼンが必要なので、明日ラッピーへ行って買ってきてもう一度行くとの事です。そしてよく晴れた今日、再度出発しました。一人では不安なので松原氏に聞いたのですが都合が悪いとのこと、「今日はどうしても唐沢のぞき迄行ってくる」とのこと。先日の倍の行程です。夏シーズンは七倉まで入れる県道槍ヶ岳線ですが、冬期は葛温泉まで、そこからは歩いて七倉です。プラス1時間をロスして登山口です。快晴の七倉沢、気温はドンドン昇ります。今日はアイゼン、ピッケル、ザイルを持って出かけました。正午には気温15℃となりました。子の暖かさの中、七倉尾根はどうなのか、先日硬くて輪かんの歯が立たなかったという急斜面、若しや崩れはしないだろうか。七倉沢は寿子の父が表層雪崩で命を落としたところ。何とか無事に登降して欲しい。
携帯電話はいつ迄経っても通じません。PM2時、そして3時未だ谷間に居るらしい、今日も赤布を10枚持って行った。途中で帰ってほしいと思った。PM4:00まだ通じない。4:20分お父さんの携帯のコールが鳴った!応答は無かったが葛温泉より下に来ているのは確かである。心配している息子達に「帰途についたようだ」と伝える。「よかったね」と安心する。4:40もう一度呼ぶと「今木崎だ」と答えてくれた。ホーッと胸をなで下ろす。
夕食時ビールを飲みながら「今日はザクザクさ。輪かんで昇ったよ。唐沢のぞきだと思って着いたら天幕場さ、唐沢のぞき迄は小さい稜を2本越えなきゃいけねえし、やっぱり七倉から唐沢のぞきへの直登はきつすぎるな。まあ、これで状況も分かったし昔の人のやった通り、ってもんかなあ」「と言うことは、今の道を急な箇所は廻したりステップを短くしたりして、私や年輩の方の足に合わせて、こつこつとやるってもんかねぇ」「まあそうゆうことだ」「余り無理しないで少し早い時期から七倉へ入るかね」という結果になりました。今日はお父さんが納得し、自分の目で確認して来てくれたこと、それが結論とつながったのです。
今日一日は心落ち着かない長い一日でしたが、大きな課題だった道直しについて、一ツ具体的に一歩踏み出せる道筋が見えてきたと思います。お父さんは「今日はくたびれたなあ」といって食事の後すぐ寝てしまいました。
4月20日 雨
朝から雨が降っています。
図らずも3月末日右足を捻挫して3週間目を迎えました。
子の3週間は何とも言えず、自分に苛立つ毎日でした。
今年こそ早目にトレーニングを重ね、絶好の体調で夏山を迎えたい。特に七倉尾根へ何回も通い、登山道の整備をして皆さんをお迎えしたい・・・と思っていました。お父さんもそのつもりで除雪のない日はプールへ通い、スキーも滑り、万全の身体を作るのに努めていたのです。それが私の怪我で予定通りの日程で動くことが出来なくなってしまいました。長女は「お母さん、もうスキーなんかしないでね」ときついことを言っています。
山へ行くため訓練しようと張り切っていた気持ちがぷっつりと切れてしまったようで情けなくなってしまいました。
私の事情を聞いた加賀美氏が忙しい日程を縫って、15日夜に来てくれました。次の日しっかり施術してもらい「山へいけるかしらねェ」と聞くと大笑いして「お母さん大丈夫ですよ。笑顔えがお!なんてったって丈夫な身体なんですから」と勇気付けてくれました。
そして「プールへ通い、水の中で歩いたり、朝夕栂池で歩いたりしているうちに元へ戻りますよ」と言ってくれました。お父さんや加賀美氏、息子夫婦や孫達、多くの皆さんに支えられ、今シーズンも山小屋で楽しいシーズンを過ごせそうです。
5月中旬頃、七倉尾根には東石楠花が見事に咲き誇ります。そのころから満ちの改良に入れたらいいと思っています。
七倉登山道の改良はグリーンワーカー事業として申し込んであります。若し、お手伝い下さる方居られましたら、どのように改良したら良いかお知恵を貸してくださいませ。そして体力も貸してください。私も明日で69歳!あと一年で大台に乗ってしまいますが、年齢を気にせず体力維持に努め、楽しい山小屋生活を続けて行こうと思います。お父さんと共に!
ではプールへ行ってきます。
松澤 寿子
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